クラスで浮いていた子が伝えたい、不登校の本当の姿
不登校の記録① 小さい頃から「普通にできない子」だった私
■ 楽しいはずの小学校が…
小学校1年生のときから、私はすでに授業についていけませんでした。文字を覚えるのも遅く、計算も苦手で、みんながスラスラできることが私だけできない。忘れ物も多く、先生に「またか!」と怒られては、友達の前で恥ずかしい思いをしていました。
低学年の頃は、それでもまだ「うるさい子」「元気な子」として笑ってごまかせていた気がします。けれど高学年に上がるにつれて、周りとの差はどんどん広がり、私は少しずつ「陰キャ」と呼ばれる側に近づいていきました。
不登校の記録② 先生からからかわれる日々
3年生の頃、私は黒板の字がほとんど見えなくなりました。字が霞んで、ノートに写すことができない。けれど「眼鏡を作ってほしい」と言えずに黙っていました。
そんな私を見て、担任の先生は「見えてないんでしょ?ちゃんと見なさい」と、からかうような口調で言いました。クラスの子たちは先生の圧に押され、笑うこともできずシーンと静まり返っていました。
放課後になると、私はひとり教室に残され、先生から半ば強制的に視力検査をさせられることもありました。まるで「お前がおかしいのだ」と突きつけられているようで、胸の奥がどんどん冷たくなっていきました。
先生からのこうした扱いは、いじめに近いものだったと思います。それでも当時の私は、「やっぱり自分が悪いんだ」と自分を責めることしかできませんでした。
親のせいでもありません。ただ私は「言えない子」だったんです。怒られるのが怖くて、恥ずかしくて、助けを求められなかった。だから黒板の字はずっと見えないままでした。
不登校の記録③ 変な子と呼ばれても、必死だった
私は昔から「注目されたい」という気持ちが強い子どもでした。音楽発表会では「ピアノが弾ける」とその場で立候補しました。実際には弾けず、音楽の先生から「本当に習ってるの?」と疑われることもありました。
でも、それは決してふざけていたわけではありません。私なりに「できるようになりたい」「認めてもらいたい」という必死さの表れだったのです。
クラスでは友達とのトラブルも多く、「変な子」と思われていたかもしれません。けれど私は、ただ必死に「ここに居たい」と願っていただけでした。
不登校の記録④ 中学での孤立 ― 善意が伝わらない怖さ
中学校に入ると、世界は一気に荒れたものに見えました。
入学してすぐの理科の授業で花を植えていたとき、私は支柱を男子に「はい、どうぞ」と笑顔で差し出しました。けれど返ってきたのは舌打ちと鋭い睨み。その瞬間、「小学校までの素直な気持ち」が通じなくなったんだと悟りました。
授業中には男子が教科書をメガホンのようにして私に「死ね」と叫び、体育では「この子とペアは嫌だ」と言われました。50メートル走では隣に立ってくれる子がおらず、先生が「誰か隣に立ちなさい!」と怒鳴ったこともありました。教室中の視線を浴びて、私は消えてしまいたくなりました。
不登校の記録⑤ 必死の立候補と失敗の繰り返し
「目立ちたい」「普通の子でいたい」という気持ちはずっと残っていました。だからこそ、学級委員や応援団のリーダーに立候補しました。けれど不器用さや発達特性から、指示を聞き間違えて先輩に怒鳴られ、余計に浮いてしまいました。
努力すればするほど裏目に出て、「やっぱり私は変なんだ」と感じるばかりでした。
小学校の頃仲の良かった友達も、いつしか冷たくなりました。部活では私だけ名前を呼ばれないこともありました。自転車置き場ではタイヤに傘を突っ込まれたり、カイロの粉をぶちまけられていたこともあります。
「これはいじめ?それとも私が気にしすぎ?」
その境界が分からなくなって、どんどん敏感になっていきました。
不登校の記録⑥ 教室に入れなくなるまで
私は「いじられキャラ」と「いじめられてる気がする」の狭間で揺れながら、とうとう教室に上がれなくなりました。
保健室やカウンセリングルームに避難する日が増え、先生に「泣いてもいいから教室に行きなさい」と言われたときは、涙よりも先に「分かってもらえない」という悲しさで胸がいっぱいになりました。
不登校の記録⑦ 高校でも繰り返したつまずき
高校に入っても状況はあまり変わりませんでした。
「高校デビューだ!」と意気込んでも、好きな人ができたと話せば「出会い厨」と笑われ、黙っていれば「無口で変な子」と言われる。結局また孤立してしまいました。
勉強もできず、内申点も低く、選んだ学校は「底辺」と呼ばれるところでした。眼鏡が壊れて黒板が見えなくても父に言えず、授業中に先生から「見えてないの?」と指摘され、クラスの人たちに笑われて恥ずかしい思いもしました。
学校に行けたり行けなかったり。親子懇談では「また休んでたんか」と怒鳴られ、公園で時間を潰したり、同じ高校を辞めた友達の家に入り浸ったりしました。
そして、中学生の頃から一番心を開いていた母を亡くしたことは、不登校に拍車をかけました。相談できる頼れる大人がいないのはとても苦しかったです。
不登校の記録⑧ クラスにこういう子がいたら
私は「変な子」「色物」と見えたと思います。
でも本人は本人なりに、必死に生きていました。注目されたいのも、優しくしたいのも、心からの気持ちでした。
だから、もしクラスにこういう子がいたら――それは「わざと」じゃないんです。
ちょっと不器用で、みんなと同じようにできなくて、それでも「なんとかやりたい」ともがいている子なんです。
不登校の記録⑨ 今だから言えること
不登校は「怠け」でも「逃げ」でもありません。
ただ、その子がその子のペースで必死に生きている証です。
私は診断がつく前からずっと浮いていました。
それでも生き続けたことで、今は農業やハンドメイド、ブログといった自分らしい道を歩めています。
だから私は伝えたい。
不登校は人生の終わりじゃない。
そして「変な子」に見える子も、必死に生きている仲間なんだと。
不登校の記録⑩ これから伝えていきたいこと
もしクラスに「変わっている」と言われる子がいたら、どうか一度立ち止まって見てほしい。
その子は、わざと周りを困らせようとしているのではなく、ただ自分なりに必死に生きているのです。
私はこれからも、不登校を経験した一人として、当時の思いや学んだことを発信し続けたいと思っています。
同じように苦しんでいる子どもたち、そしてその周りにいる大人の方々へ――「違っていてもいい」「それでも未来はつながっている」というメッセージを届けたいのです。
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